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 ■--武家の服装の着方
 >>>信濃  男  長野  -- 2005/10/12-16:39..No.[1856]
    1.(江戸時代)武家の服装の着方は何となくわかるのですが、非勤務時の時の服装は羽織と袴と着物とあと何をそろえればいいのでしょうか(下着も含め、また行灯袴か馬乗り袴か)?            2.ちなみにふんどしは解るのですが、白い着物の下着は正確にはなんとよぶのでしょうか?
3.武家は非勤務時に家紋がついた羽織もきるのでしょうか?
                                またこの映画に出てくるような衣装が着たいです。こちら

どのたかお知恵を仮して下さい。よろしくお願いいたします。




>>> 信濃  男  長野  -- 2005/10/12-16:44..No.[1857]
 
    すいませんうまく表示されませんでした。誤り:またこの映画に出てくるような衣装が着たいです。こちら正しくは:またこの映画に出てくるような衣装が着たいです。映画蝉しぐれの公式ホームページのギャラリーに掲載されています。普通に書くと蝉しぐれに出てくる青年時前半の衣装と青年時後半のいしょうです。ややこしくてすいません。              
 

>>> 優妃讃良  女  埼玉  -- 2005/10/12-18:35..No.[1859]
 
    着物の下に着ているのは襦袢でしょう。
この当時ですと、正確には半襦袢かなとも思いますが、映画ではそこまでこだわっていないかもしれません。

他に角帯や腰紐、伊達締め、足袋などが必要になります。
足袋も当時のだと、こはぜでなく、紐かもしれませんが、これは調達が難しく、また高額になるでしょう。

非常勤の衣類ですが、「家でくつろぐ」のと「外に出かける」「上司を訪問する」はたまた「親の前に出る」といったTPOで変わってきます。
家でくつろぐなら、着流しでしょう。外に行くなら、カジュアル目的でも袴は穿いたでしょう。
また「親の前に出る」というのは家の中でのことですが、かしこまって、きちんとした格好でいきました。
 

>>> 信濃  男  長野  -- 2005/10/12-18:56..No.[1860]
 
    優妃讃良さん有難うございます。
 

>>> 信濃  男  長野  -- 2005/10/12-19:02..No.[1861]
 
    一度で書き込まなくすいません。武家の衣装など扱っている、お勧めの店がある方はお願いします。
 

>>> 朝路真行  男  兵庫  -- 2005/10/12-21:20..No.[1862]
 
     どうも朝路でございます。

 まずお答えする前に申し上げておく事があります。士農工商という身分があるように、武士にも細かく身分と言うものがあります。信濃さんは高校生と言うことですから、歴史の時間で習われたと存じます。旗本と御家人の差はお判りですね。石高(報酬)の違いだけでなく、地位(官位)も違いますし、一番の目安は「御目見得」「御目見得以下」の違いです。
旗本と御家人という言い方は将軍家でのことですが、御目見得とは将軍に直接拝謁ができる身分、御家人は直接会うことはできません。これと同様に、各藩でも御目見得とそれ以下に分類されます。さらに旗本にも御家人にも家来がいますから、それら陪臣(主君から見て家来の家来)の身分は士分と言い、暮し振りは町人と変わりありません。
 通常、武士と呼ばれる範囲は、この御家人までのことを指します。戦国時代ですと足軽までのことです。足軽は武具一切を持っていますが、戦の度に駆出される、いわゆる雑兵の類はその都度の支給品を与えられます。御目見得の身分でも、一千石以上を上級、五百石までの中級、それ以下の下級と分かれます。「殿様」と呼ばれるのはこの階級まで。つまり御家人はそれ以下の身分と言うことです。
 これを理解していただいた上で、以下を申し上げます。
 「蝉しぐれ」に見るような下級武士は、先ほど申した分類ですと、御家人の身分でも最下級になります。常勤の場合は裃、それ以外では町人並みに木綿しか着ることが許されていません。よって袴も木綿物になります。また出仕(勤務)以外には足袋は履きません。通常時の羽織袴には紺足袋、正装の裃には白足袋を履きます。普段から白足袋を履くのは町人だけです。普段には丸羽織(現在の羽織と同じ)を着ますが、役職によっては支給品の紋羽織を着て町に出ます。この場合の紋は、主君の紋の場合と直属の上司の紋、あるいは役職によって決められた紋のいずれかを着ることになります。何かしらの御用によって外出する場合はぶっ裂き羽織を着て外に出ます。ですから町に出て侍同士が「どちらへ?」などと会話がなくとも、どのような用件があって外に出ているかどうかが判断できました。よって「蝉しぐれ」の主人公にように、役職に就いていない部屋隅の侍は紋付を着ることはありません。また「殿様」と呼ばれる身分でも、五百石以上でなければ普段から絹物は着ません。この場合の絹物も、羽二重などではなく紬程度のものです。
 
 着物から見えている下着については、優妃讃良さんがお書きのように「襦袢」であると存じますが、場合によって「手筒」というシャツのようなものを着ます。着物の袖口からシャツの袖のような物が見えます。これは上級武士の正装用ですから、「蝉しぐれ」に登場したかどうかはわかりません。
 
 御紹介のHPから、役それぞれの衣装を見ますと、着物は木綿の絣物、唐桟木綿の袴などでしょうか。これらは武家や町家に関係のないものですから、この「男のきもの大全」で紹介されている「あめんぼう」さんなどで手に入ります。また袴などは美夜古企画さんなどでも扱っているようです。こちら
 しかし「蝉しぐれ」のHPで見る限りでは、武道用の袴でも十分かと存じます。また行灯袴を武士は用いません。
ご参考になりますでしょうか?

 

>>> 信濃  男  長野  -- 2005/10/12-22:14..No.[1863]
 
    朝路真行様たびたび有難うございました。また何かあったら御相談お願いいたします。
 

>>> 信濃  男  長野  -- 2005/10/12-22:23..No.[1864]
 
    そういえば、映画の話になりますが文四郎の父親又左衛門(緒方拳)は序章で紋付の肩衣をつけて出かけていきました。映画が進むと、又左衛門が御家騒動に巻き込まれ、文四郎は普請組屋敷から長屋にうつされましたが、旧禄にもどされ禄高はいっておりませんでしたが、郡奉行として田畑を検地していました。言葉は不適切ですが、このような家はどのくらいのたかさだったのでしょうか(位等)?
 

>>> 信濃  男  長野  -- 2005/10/12-22:25..No.[1865]
 
    何度も連続すいません、又左衛門ではなく、牧 助左衛門でした。
 

>>> 朝路真行  男  兵庫  -- 2005/10/13-23:44..No.[1867]
 
     どうも朝路でございます。
 
 このサイトのテーマは「着物」ですから。本来はここでお答えすべき事柄ではありませんが、今回だけは行き掛かり上申し上げます。
 
 侍の身分を示すものとして、「家格」と「禄高」あるいは「石高」という言い方をしますね。大名などは表向き家格を明示しません。その代わりに官位が与えられています。将軍、尾張公、紀州公クラスが三位以上、加賀公など大大名、高家などが四位、大名、旗本クラスは五位、その他の旗本、小名はそれ以下となります。これらの家来は官位を持ちませんので、家格を示す知行の石高を明示します。旗本も御家人も、また各藩の家来にも「知行取り」と「扶持米取り」の二種類に分けられます。
 「知行取り」とは、石高、禄高に応じた収益の上がる土地を与えられる身分を指し、「扶持米取り」とは、実際の土地は与えられず、その分の米を与えられる身分を指します。
 一番よく知られている御家人と言うと、町奉行所の常町回り同心が挙げられますね。この同心クラスは三十俵二人扶持(さんじゅぴょうににんふち)です。三十俵が禄高、二人扶持は月給のことです。米1俵60キロ、これが30俵ですから、米1.8トン分の知行地が与えられていると言うことになります。御家人全てが知行取りではありません。同心クラスの殆どは「扶持米取り」別名「蔵米取り」でした。
江戸中期のころの米価で、1石=150キロが平均で銀50匁、金一両が銀60匁で換算しますと、金一両が現在の7万円程度ですから、1石は凡そ5万円程度になり、30俵を石高に換算すると12石ですから、約60万円が同心の家格であり、一族の収入になります。加賀前田藩が100万石と言いますから、このままの米価で換算すると500億の収入があったことになりますね。
 家格は特別に加増されない限り、変わることはありません。同心の家に生まれれば一生30俵の家柄のままです。ただ扶持は役職によって昇進すれば変わることがあります。
 「一人扶持」とは、一日に一人が食べる米の量から換算した月給のことで、一人扶持=二分(4分=1両)ですから、二人扶持ですと月給1両と言うことになります。先程の1両=7万円で考えますと、7×12ヶ月=74万円が年棒になります。つまり同心一家の総年収は134万円と言う事になります。これは米価が安定している場合の収入ですから、米価によって収入が激減することも有り得る訳です。
 この収入で、家族を養うわけですから家計が大変なのは理解していただけると思います。

 これが諸藩の話になりますと、藩の石高によって家臣の禄高も変わってきますね。忠臣蔵で有名な赤穂藩士 吉田忠左衛門は足軽頭兼郡奉行を勤めた人でした。吉田家の家格は二百石、役料(年俸)五十石で、息子の沢右衛門は十三両三人扶持でした。「蝉しぐれ」の藩がどの程度の石高であったかは判りませんが、赤穂は五万三千石という平均的な大名家の1つですから、これから判断されればいかがでしょうか?

 尚、金額は関東農政局の資料から、当時の平均を出して計算していますので、差異が必ずあることを御承知置き下さい。
 

>>> 信濃  男  長野  -- 2005/10/14-16:58..No.[1868]
 
    朝路真行様には、たびたび御丁寧な回答有難うございます。今回の件は理解いたしました。真にありがとうございました。