■--甚平と作務衣の違いって? >>>Shin-rine 男 愛媛 -- 2004/08/14-22:12..No.[266] |
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最近とても気になるのですが、甚平と作務衣の違いって何ですか? | |||
>>> 優妃 讃良 女 埼玉 -- 2004/08/16-08:44..No.[267] | |||
出自が違うんですね。 作務衣は神社仏閣にて、掃除などの作業を「作務」と呼びます。 このときに着る衣類が「作務衣」というもの。したがって、四季の気温に合わせて様々な生地を使います。 形状としては、手首までの筒袖(洋服的には長袖)、長ズボン。手首、足首を括れる紐やゴムのついたものもあります。脇は縫い綴じてあります。これは、平安時代から意外と普遍なお寺などに使える末端の庶民の衣服形態です。紬なども含めて平織り系の生地が中心です。 一方、甚平は、庶民発祥の衣服。平安時代には「袖なし(てなし)」という身頃だけの上衣に膝丈の袴(いわゆるズボン)が一般でした。ちょっと余裕があれば、袖をつけたりもしました。脇は縫わないか、綴じ糸でくくる程度。意外とずっと庶民の家で寛ぐ衣類として生き残ってきました。現在では、夏場だけ登場するようで、しじら織が多いように思います。現在は半袖の筒袖に膝丈ズボン形態に固定しているような。 袖つけや脇は綴じ糸の場合も縫いの場合もあります。 元はこうなんですが、中間的な衣類が出てきてしまうのはアリアリ。 私は、「作務衣3点セット」という、上衣、長ズボン、半ズボンというセットを見たこともあるので、「作務衣は長ズボン」とは、現在は限らないかと。 | |||
>>> お祭り好きの電気や 男 神奈川 -- 2004/08/19-02:46..No.[271] | |||
まいど、お祭り好きの電気屋です。 私のほうでも調べてみようとしまして、まず、広辞苑(CD-ROM 第4版)で調べてみましたが、作務衣しか載ってませんでした。 ちなみに内容は、「僧が作務のときにきる・・・」と一般に知られて いることしか述べられていません。 しばらく検索エンジンで色々やってみましたが、いまいち結論を 示してくれているものはありませんでした。 ところがあるとき、何気に着物大全の中をうろついてたらちゃん と載っているではありませんか。 てな訳で、このページの 「和服を知る」→「作務衣/甚平」を ご覧ください。 (灯台元暗しでした・・・。) では、失礼。 | |||
>>> 朝路真行 男 兵庫 -- 2004/09/10-02:31..No.[301] | |||
初めまして。朝路と申します。 ずっと以前ですが『江戸時代の甚平を探しています云々・・・』という書き込みがあり、それ以降色々調べたりしましたが、皆様の仰るように諸説紛々、これが基と言ったものは不明のようです。 「お祭り好きの電気や」さんが仰るように、このサイト内でも書かれていますが、『作務衣』は禅宗から来たもののようです。普段、他宗の僧衣と比べて見ることは滅多にないことですから判りにくいのですが、禅僧の僧衣は他宗と比べて格段に袖の振りが長くなっています。ですから何か作業をしようとすると、袖が邪魔になって仕方ないので、袖先を襷掛けのように首の後ろで結んでいました。丁度、歴史の教科書に出てくる僧兵のような姿ですね。時代がかなり下がり、作業時だけの塵除けとして筒袖の上着を羽織るようになりました。現代でも見かける割烹着のようなものです。早坂さんがお書きのように、最初は丈も長く、ズボンも無かったのはその為のようです。 「優妃 讃良」さんが仰るように、素材も様々なのは、元が季節を問わずに着用したからでしょうね。なんせ禅僧の日課の第一は清掃から始まりますから。 次に甚平ですが、早坂さんがお書きのように元は『甚兵衛羽織』からの転化といわれています。甚兵衛羽織というのもはっきりとどう言うものか判りませんが、その語源は『陣羽織』だというのが有力で、発祥地は大阪からのようです。推測の域を出ませんが、「大坂夏の陣」の際に武将たちが着ていた夏用の陣羽織から発生したのではないかと考えられます。と言うのも、古来、夏場の戦と言うものは食糧事情や農作業の関係からあまり無く、しかも陣羽織が盛んに作られるようになったのは戦国時代末期からですから、この説には説得力があるように思われます。そのころの形状は、現在のような打ち合わせ式ではありませんでした。 以前の書き込みでは、その形状を御覧頂く資料が無かったのですが、図らずも目にした日本映画に、その甚平を見つけましたので、機会があれば御覧ください。『日本で一番長い日』(東宝製作)という少々長い映画です。映画の後半、近衛師団長役の島田正吾が、麻製と思われる甚平を着用しています。御覧になれば判ると思いますが、作務衣同様、現在と違って共布のズボンはありません。 『優妃 讃良』さんが仰っている説は、庶民の水干(すいかん)あるいは直垂(ひたたれ)という、麻製の単衣から発生したと言う説ですね。現在の甚平の形式は、それらの形式と似ていますね。 ご参考までにしゃしゃり出ました。長文ご容赦のほどを。 | |||
>>> 樫 男 宮城 -- 2004/09/10-22:08..No.[307] | |||
甚平は、19世紀半ばに喜田川守貞という人が考察しています。 岩波文庫「近世風俗志(2)(守貞謾稿)」から引用します。 守貞謾稿は、近世風俗史の基本文献なのだそうな。 私は他に資料を持っていないので、私の解釈は書きません。 --- >袖なし羽織 > そでなし、古名てなしと云ふ。無手なり。古今ともに賤夫の布服 >なり。けだし今の肩衣は古の無手より起る。古の手なしは襞積なし >なり。今の肩衣は上と同形、古の無手は賤者の服なり。今の肩衣は >貴人もこれを着し、下民かへつて許しを得ざれば着すこと能はず。 > 今世の袖なし羽織、麻布・単木綿、また袷綿入の二品には木綿あ >り。絹縮緬等も用ふ。 > 昔は男女専らこれを着し、近年大いに廃すれども、京坂往々これ >を着す者あり。江戸は京坂より先に廃し、今は困民男女稀に着す者 >あるのみ。 (中略) > 今世も京坂の小民、夏日は腹当に袖なしのみを着す者多し。江戸 >にはさらにかくのごとき人これなし。 > 今世、京坂にて袖なし羽織とも云ひ、また、じんべとも云ふ。甚 >兵衛の字を用ふか。愚按ずるには、武家陣羽織一名具足羽織と云ふ >物、袖なしなり。形これに似るが故に陣羽織を小児等転訛して、つ >いにじんべを名とするか。ある書、陣兵なり。兵士の羽織と云ふこ >となり。 (後略) --- | |||
>>> 大和多聞 男 神奈川 -- 2004/09/17-20:22..No.[319] | |||
樫さんへ 岩波文庫の「近世風俗志(守貞謾稿)」を早速取り寄せて読んでいます.絵や図も多くとても興味深い本ですね. さすが岩波文庫,貴重な本が収録されています. しばらくは夢中で読みそうです. 樫さん,面白い本を教えていただいてありがとうございました. | |||