きものの孤独
この数年来、きもの愛好者の存在と広がりが、クローズアップされ続けてきましたが、正直なところ、「何かが違う」という違和感を覚えたままの「きものの現状」もあります。あなたの心にもそんなひっかかる何かがあるなら、「きものの世界」は少しばかり歪みつつあるか、あるいは未知の可能性をはらみつつあるかのいずれかでしょう。きものを色々な形で楽しむ世界が増えたことは大変喜ばしいことですが、その一方で、未だに着る者の心を知らない作り手売り手の存在や、作り手売り手の心を知らない買い手の存在が、相変わらず多くの主張を繰り広げていることもまた事実です(実際には、作り手の心を知らない売り手の存在も、困った現状を呈しているようですが)。何でもアリの世の中ではありますが、主張する自由の裏には責任があり、価値観の違いが他人を傷つける場合もあることを、改めて確認しておきたいものです。
そもそも、きものに求める満足、きものに関わる満足とはいったい何でしょう。価格?素材?色柄?着心地?職人技?希少性?・・・所有欲?それとも愛着?きものに対する人々の価値観や主張、表現は星の数ほどありますが、結局のところ、きもの自体の存在を、どのように受け入れているのかという点が、きものに対する満足と不満足の分かれ目になっているのでしょう。その存在を美しいと思うか、素晴らしい思うか、想像を超えたものと思うか、あるいは全く興味をそそらない古布にしか見えないのか。
きものは、はるか千年以上も昔に遡り、人々の叡智を受けながら多くの人の肌を守り、温めてきました。一本の糸、一枚の布という日本人の知恵が生み出した和の素材は、何も飾らず、何も語らずとも、眩いほどの存在感を放ちます。そして誠実に、きものは私たちの暮らしと歴史を支えてきたのです。かつてビリー・ジョエルは、「Honesty(オネスティ)」という曲の一節で、「誠実とはなんて孤独な言葉なんだろう」というフレーズを歌っていました。そう、現在ほど、きものが孤独を感じている時代はないような気すらします。生産の現状、販売の現状、着用の現状といった様々な環境変化ばかりを軸にきものの現在(いま)が語られていますが、悪循環を繰り返すばかりで、きものたちが寂しがっているとは思いませんか?そろそろきものの孤独を理解することも必要なはず。この国には、まだまだ素晴らしいきものを作り育てる力が残っているはずです。
今のきものに必要なのは、「ありのままの姿」であると思われます。きものを創出していくのは、もちろんわれわれ人間の手によるものですが、それぞれのきものの魅力を最大限に輝かせることさえできれば、十分にその存在意義は多くの人々の心に伝わってゆくことでしょう。幸いにも全国のきもの生産者の中には、ユーザーニーズに目を向け、マーケットインの思想でアクティブな着物作りに取り組んでいる人が大勢います。それらの人の手によるきものをよりいっそう輝かせて市場に出している売り手の人たちもたくさんいます。個々の出会いは様々であっても、ありのまま、感じるままに、裸の心で魅力を感じるという、ひらめきに近い出会いこそが、ほんとうの意味でのきものとの出会いに違いありません。われわれ人間は、本来の姿を見失って初めて、その価値の偉大さに気付くことが多々あります。既に失ってしまったきものたちは数知れず、今まさに失われつつあるきものたちもたくさんあります。私たちにとって、本当にそれらは不必要なものだったのでしょうか。長らく作りかけのまま放置していた「全国のきもの一覧」を、今に至ってアップしたのは、学術的な見地からではなく、“活用”という観点から、現在のきものの現状を見つめなおしてみたいと思ったからです。きものを孤独から開放してあげることが、最も幸せなきものの未来を約束してくれることのような気がします。
2003年08月26日 掲載